2011年03月30日
16年前でした
当時住んでいた神戸で震度7の直下型の地震がありました。
成人の日があった連休明けの火曜日、1月17日、朝方でまだ真っ暗でした。
街は壊滅状態、火事、サイレン、ヘリコプターの音、土埃、泣き叫ぶ声、寒さ、
職場は自家発電の豆電球のなか、騒然としていました。
ロビーに横たわるたくさんの外傷者、亡くなった赤ちゃんを抱えて子守唄を歌う若い母親、
診察待ちの間に息を引き取る人々、
死亡確認するドクターに『生き返らせてくれ!』とつかみ掛かる家族。。。
私の家族はみんな無事でした。
しかし、震災の真っ只中にいると、あまりの被害のひどさ、悲惨さに
助かった我が身を喜べない自分がいました。
友人の無事、家族の無事は幸運なことなのに
病院に押し寄せたたくさんの辛い人生にふれるたび
あぁ。。。
ごめんなさい、私は助かってしまいました、家族も友人も亡くしませんでした。ごめんなさい。
と。。。
なぜか後ろめたく
看護婦さんとこは大丈夫だったの?と聞かれる度に
おかげさまでと答えるのがつらかった。
自らも怪我をして、さらに家族は生きながら火事で焼かれました、熱いよぉ〜って叫ぶ子供を私は見殺しにしたんです、と語る女性を抱きしめるしか出来なかった。
よかったですね、子供さん元気で、うちの子の分も幸せにと心からいってくださったその方は、
この年月をいかに生きてきたのかと、思うだけでつらいです。
戦争で生き残った方の、『生き恥をさらして』という心理を理解できずにいましたが、
震災体験はまさに近いものがありました。
どんなにみんなに慰められてもその傷にかさぶたがかかるにはかなりの年月が必要でした。
生かされた意味を知るのはもっと先になるかもしれませんが、
亡くなった方が天国へ選ばれし者なら
生かされた者もまた、現世に選ばれし者でありましょう。
同じ痛みを共有することは他人にはできませんし
それがわかるというのは
傲慢であるかもしれませんが
少なからず、類似した被災を体験した者として
その土地に生をうけ育まれたものとして
心からその復興を願います。
成人の日があった連休明けの火曜日、1月17日、朝方でまだ真っ暗でした。
街は壊滅状態、火事、サイレン、ヘリコプターの音、土埃、泣き叫ぶ声、寒さ、
職場は自家発電の豆電球のなか、騒然としていました。
ロビーに横たわるたくさんの外傷者、亡くなった赤ちゃんを抱えて子守唄を歌う若い母親、
診察待ちの間に息を引き取る人々、
死亡確認するドクターに『生き返らせてくれ!』とつかみ掛かる家族。。。
私の家族はみんな無事でした。
しかし、震災の真っ只中にいると、あまりの被害のひどさ、悲惨さに
助かった我が身を喜べない自分がいました。
友人の無事、家族の無事は幸運なことなのに
病院に押し寄せたたくさんの辛い人生にふれるたび
あぁ。。。
ごめんなさい、私は助かってしまいました、家族も友人も亡くしませんでした。ごめんなさい。
と。。。
なぜか後ろめたく
看護婦さんとこは大丈夫だったの?と聞かれる度に
おかげさまでと答えるのがつらかった。
自らも怪我をして、さらに家族は生きながら火事で焼かれました、熱いよぉ〜って叫ぶ子供を私は見殺しにしたんです、と語る女性を抱きしめるしか出来なかった。
よかったですね、子供さん元気で、うちの子の分も幸せにと心からいってくださったその方は、
この年月をいかに生きてきたのかと、思うだけでつらいです。
戦争で生き残った方の、『生き恥をさらして』という心理を理解できずにいましたが、
震災体験はまさに近いものがありました。
どんなにみんなに慰められてもその傷にかさぶたがかかるにはかなりの年月が必要でした。
生かされた意味を知るのはもっと先になるかもしれませんが、
亡くなった方が天国へ選ばれし者なら
生かされた者もまた、現世に選ばれし者でありましょう。
同じ痛みを共有することは他人にはできませんし
それがわかるというのは
傲慢であるかもしれませんが
少なからず、類似した被災を体験した者として
その土地に生をうけ育まれたものとして
心からその復興を願います。
Posted by リリィ at 22:27│Comments(0)