明後日は、母の命日です。
一足先に同じ病気でなくなった父をささえ、転移性の肝ガンと肝硬変で黄疸に腹水をためながら、
年末には正月の支度を心配し、孫達のお年玉を心配し、看護する嫁や娘を心配し、
毎日訪問する先生や看護師さんに感謝し、肝性脳症になりながら、時には文句も言いながら、意識がなくなった最後のたった10日間に誕生日まで迎え、担当の先生にお祝いのお花ももらって、家族みんながいる日曜日のお昼頃、静かに息を止めた母。
父の胃ガンがわかったとき、若いときに一度胃ガンをしていたので「ついにきたか」と、さして驚きもしなかった私ですが、
その3ヶ月後に母の胃ガンを知らされたときは、大変驚きました。
そして、数ヶ月して不思議な夢を見ました。
見知らぬ小さな女の子が、しゃがんで後ろ姿で私につぶやくのです。
「もういいでしょ、お父ちゃんとお母ちゃん、私に返して。。。」
それは私が生まれる1年前、3才で急死した姉だったように思うのです。
姉のくぅちゃんは、父そっくりで素直なかわいらしい女の子だったそうですが、もうすぐ4才になるという初夏、突然一晩で死んでしまったという話を聞かされていました。
「ぽんぽん痛い~」そういって。
我が家には、私が生まれたときから小さな仏壇があり、近くに住む叔父や叔母もよく墓参りをしてくれていました。
一日の始まりは、くぅちゃんの仏前にご飯をあげ手を合わすことから始まり、くぅちゃんにあげたご飯は天日で干して油で揚げてお砂糖を絡め私のおやつになりました。
存在する私より、大切にされるくぅちゃん。
家族で私だけが知らないくぅちゃん。
悪い子だと、両親に嫌われてしまう。。。
さして賢くもない幼い私は、両親の愛情を確かめるためよく病気になりました。
病気になりたい。。。そう思うと本当に熱が出て嘔吐し食欲をなくしました。
怒られたり、不安になると決まって熱をだし激しく嘔吐し両親を心配させていました。
病気で娘を亡くしている父と母ですから、体調が悪いとふだんの厳しさとはうって代わって、とても優しかった。
でも、体調が悪い私がいても、父も母もくぅちゃんを大事にするのにはかわらず、母は決まって仏壇に向かって「早く治してあげてね」と拝むのです。
私なりに、「一番愛して欲しい」をあきらめたのは小学校の高学年、思春期になってからでしょうか。
自我の芽生えと共に、私の中で存在を薄くしていったくぅちゃん。。。
そのくぅちゃんが、一度に父と母を連れていった。。。両親が相次いで亡くなったとき本当にそう思いました。
そうか、くぅちゃん、30何年、待ってたんだ。
くぅちゃんは、お雛様も買ってもらえなかった。幼稚園にも行かなかった。小学校にも行かなかった。ランドセルの重さも知らない。遊園地も遠足も家族旅行も。。。
死んだ子のいる家庭にまたすぐ子供が授かるというのは、死んだ子供が両親を心配して身代わりの命をよこすのだと聞いたことがあります。
私が生まれたとき、「女の子」と聞いて大喜びしたという母。
「くぅちゃんが帰ってきた。。。」
若かった母はそう思ったことでしょう。
でも、色白でまっすぐな髪でおとなしかったくぅちゃんとは違い、おてんばで色黒でくせっ毛で落ちお着きのない末っ子に手を焼きながら、くぅちゃんとは過ごせなかった日々をうめていった母。。。
私に娘が生まれたとき、「あんまり賢いと神様に気に入られて早く連れて行かれる。少しくらいぬけてる方がいい。」と
おおらかに育てるようにいってくれた母。
亡くなる前、「死ぬのなんて怖くない。だって、あっちにはお父ちゃんとベル(数年前に死んだ愛犬)と、くぅちゃんもいるから」
と笑った母。。。
今頃天国で、くうぅちゃんとの日々をやっとうめているのだろうかと。。。
くぅちゃん、お父ちゃんとお母ちゃん、よろしくね。
そのうち、私がいっても邪魔にしないでね。