仙台で生まれて25年間すごして、ひょんなことから関西の人に嫁ぎました。 和歌山在住。 家族は主人と京都に暮らす大学生の娘、13才でお星さまになったコーギー犬リリィです。

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2007年11月30日

う~ん、わからん。。。


どうしたらいいんでしょう。

統計学がちっともわかりません。
日本語で書いてあるのに、その日本語がよくわかりません。

おもえば、数学につまずいたのは中2のとき。。。
二次関数だった~。
そして、微分積分も学校ではやってくれなかったから、自力で何とかしたクチですが、
受験が終わるとそんなものどこか、忘却の彼方へ。。。

そう、心理学の教授がいっていたな。
「人間のもっとも偉大な能力は忘却である」。。。関係ないか。

。。。しかし~。

確か専門学校で統計学があったはずなんですが、
いかんせん、私は120点満点のテスト、25点 (T T)!!!
。。。そう、単位を落としていました。。。

数字はカイカイが出てきます。

分散だとか、変数とか係数とか~~!!!
Σとかn とかxとか yとか~。。。

主人は工業大学の電子工学科いってるし、数学が得意と豪語するので
「教えてよ~」と泣きついたら

「おれ、統計学は嫌いだから知らない」

そうかよ。。。。




  


Posted by リリィ at 23:33Comments(0)

2007年11月29日

秋色

和歌山も、秋色になってきた。


ここは和歌山城の石垣を切り出したかつての石切場。「岡公園」。

我が家から歩いてすぐ。愛犬の散歩コース。
お天気がいい日は、子供達が遊び、近所のおじいちゃん達の社交場にもなる。
この公園の真ん中には天妃山とよばれる小高い丘がある。石切場だっただけに岩山だ。
主人は子供の頃、この岩山を隅から隅までよじ登り、転げ落ち探検したそうだ。

岩を登る子供を「あぶない」と、とめる母親をみては、
「登って転げたらいいねん。痛かったら、いわんでも危ないのわかるわ。痛い思いする前にとめてどうすんねん。。。。」と
ブツブツ言う。
「そやから、今の若いもんは。。。」と、あんたいったいいくつなのといいたくなるほど「おっさん発言」をする。

。。。47はおっさんか。

この公園には桜の木が多い。
春には桜のトンネルとなり、秋には葉を赤らめてくれる。
けやきや銀杏や紅葉も好きだけど、桜の紅葉もオツだよね。

明日もここをお散歩です。  


Posted by リリィ at 21:09Comments(2)

2007年11月27日

一泊旅行

この土日に、木曽に住んでいる仲人さん宅にワンコ連れで家族でおじゃました。

仲人さんは、元々北海道でユース形式の民宿をしていてその宿で私たち夫婦が知り合った。
10年ほど前にその宿を閉め、今度はなぜか木曽の山奥で木工芸と漆器の職人になり、暮らしている。

仲人さんといっても年が10才と離れてはいない。
古くからの友人のように接してくれる仲人さんである。

5年ほど前に「家を建てたから、あそびにおいで~」と、いわれていたのだが、金欠で遠出ができずにいた。
今回、他の民宿仲間が木曽に集まるらしいと勘違いした主人が、「来年は娘も受験だし、今年しかみんなでいけないな」と
みんなで出かけることとなった。

しかし、実際は仲間が集まっていたのは関東の所沢で、仲人さん宅には私たちだけがぽつんとおじゃますることになった。

家は妻籠宿の山手、飯田に向かう国道から少し入ったところで、まわりの古い民家とはまったく異なった「白いペンション風」。
冷たい空気が何とも気持ちよかった。
リビングで燃える薪ストーブが何とも暖かい。炎をみているのはなぜか癒される。
暖炉とか、薪ストーブとか、いろりとか、我が家を建てるときに欲しかったけど、ここ和歌山ではそんな思いっきりな暖房はかえって不要とあきらめた。

。。。やっぱり、寒いとこに住みたいじょ~。
でも暖房費が大変かな。。。う~ん。

二日間、ただ、ただ、ゆっくりした。
お天気で真っ青な空にはえる山々、木々を眺め、木曽のおそばや馬刺をいただき、冷たい水にさわって、木製のスプーンや桶、ツルで編んだ大きな籠をおみやげに買って、深呼吸して帰ってきた。

帰りは滋賀から大阪吹田まで、渋滞に巻き込まれはしたが、何とか無事にたどり着いた。
愛犬は、疲れで今日もぐったりしている。
よく旅行に連れていってはいたが、今回は久しぶりでしかも8才だし。疲れたみたい。

私も、肩こりで頭が痛い。
でも、先週さぼった大学のレポート締め切りが迫っているので今夜は仕上げるつもり。

しかし。。。計量心理学がちっとも理解できずよけい頭痛がひどくなる。
こんなことなら木曽に行く前に提出してから行けばよかったのにと、いつもどおりの後悔をしている私なのだ~。。。

。。。。コーヒー飲んであと少しがんばるじょ~~~~。




  


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2007年11月23日

親友

私には、なが~いつきあいの友人が多くいる。

中学の同級生のNちゃんも、その一人。

中学3年当時の同級生。
成績優秀だった彼女と劣等生だった私がなんでこうも長く付き合っているのかよくわからない。
きっかけはクラスの「班」
同じ班にずっと。。。だったか、一学期だけだったか覚えていないが、なにせ部活もクラブも違うのに仲良しだった。

彼女、本当に成績のいい子だった。
数学や英語の「わからない」がすでに団子になって、取り返しがつかなくなっていた私とは違い、几帳面にまじめにコツコツ積み上げ型の彼女は、わからないことなどないかのようだったが(私にはそう思えた)、なぜかいつも私をほめてくれた。

「リリィ(もちろん、本名ではありません)は、すごいね、えらいね、絶対できるよ~」と。

混乱する私は、実力や自分の気性(緊張すると舞い上がる)を無視し、ステータスだけで学校選びをし、そして滑り止めも本命もすべて不合格という、15才にして人生のどん底を経験することになる。

もちろん、親や担任は心配してくれたが、なによりNちゃんが自分のことのように落ち込んでくれた。
自分は、トップクラスの高校に一発合格していたのに。

私が二次募集で私立に入ってからも、なにかと心配してくれつきあいはとぎれることがなかった。
夏休みの宿題に付き合ってくれたり、時には遊びに出かけたり、学校のグチを聞いてくれたり、部活の展覧会(美術部だったので)にも足を運んでくれた。
携帯なんかなかったけど、なにかしら連絡を取って会っておしゃべりして、そのたびに彼女は私をほめて励ましてくれた。

そんな関係は今も同じ。
彼女にほめてもらうと、とてもうれしい。
ほめてもらうのは、大人になってもとってもうれしい。

いまだに携帯もパソコンも持たない彼女なので、ちょっとした連絡には昔と同じ電話か手紙といった方法しかないが、
彼女のために便せんを選び、彼女のためにペンを持つのは密かな楽しみでもある。

時折、彼女手作りの石鹸が届く。 今日も届いた。 ありがとうね。
柔らかい、彼女の手の匂いがしそうな角張った石鹸。市販品にはないぬくもりがある。

仙台に帰れば、必ずあってくれる。
そしてまた、「あんた、えらいね~」とほめてくれるのだ。 この情けない私を。

神様、すてきな友人をありがとうございます。 
私も、彼女にとっていい友人であるように努力します。
これからもずっと。








  


Posted by リリィ at 23:54Comments(0)

2007年11月22日

シャンプーのコマーシャル

映画の協賛なのか、最近放映されている某メーカーのシャンプーのコマーシャルが好きです。

5才くらいの男の子と若いお父さんが、夕暮れお風呂に入っている。
シャンプーしてる男の子の泡だらけの髪を「ほ~ら、東京タワー。。。」って。。。
お父さんが「同じ光景の少年の頃の思い出」と重ねている。

これ、仙台でもやっていますか。
コマーシャルって、地方によって違ったりするから。

私の子供時代の思い出は仙台の長町にあります。
長町小学校のすぐ近く、父の職場の職員宿舎に我が家はありました。

広い敷地に2棟たっていた新しいアパートではなく、一番奥の古い平屋の一軒家でした。
アパートはみんなガスでお風呂をたいていましたが、その家は年代物の樽型のお風呂でした。
豆炭を竈にくべて火をつけ湯を沸かすもので、窯のそばに行くととても熱かったものです。
(数年してガス釜になったとき一番喜んだのは主婦の母ではなく「豆炭運び」をさせられていた兄でした。)
映画「三丁目の夕陽」にでてくる台所の流しや板の間など、そっくりのものがありました。

裏庭にはイチジクの木。よく木に登って叱られました。
日当たりの悪い小さな裏庭では、母は少しの野菜をつくったり、私は学校の宿題のへちまを植えたり、ジョロウグモを見つけたり、だんごむし集めて叱られたり、冬には霜柱をシャリシャリと踏みにいったりしました。
その家で、幼稚園から小学校5年の冬まで「多感な?」少女時代を過ごしました。

今年の夏、盆休みに帰省したとき、5~6年生のときの担任の先生にお会いする機会を得ました。
たくさんお話をしたあと、思いがけず先生が長町に連れていってくれました。

道が拡張されてマンションが増え、田んぼが減り、当時と同じ通りはとても狭く感じ、家並みも変わりましたが、思い出と同じ風景を見つけることもできました。
ここは同級生のOくんの家、ここにSさんが住んでて、先生の家はここでしたね。。。と
住んでいた家は取り壊されて空き地になっていましたが、落書きをしたアスファルトや缶けりをした広場、毛虫が大発生したあかしやの木、母と買い物にいった学校前のお店、私たちが学んだ校舎があって。。。
60才の先生と40代になっていしまった教え子でしたが、思い出話の中では若い担任の先生と小学生でした。

5年生の時、父の念願だった新居が建ち 我が家は引っ越すことになったのですが、両親に懇願して片道1時間の距離をバスで卒業まで通いました。
そのクラスを離れたくなかっただけではなく、長く暮らした長町と離れたくないのと先生の生徒として長町小を卒業したかった。

当時は夕暮れになると、お風呂をたく薪の臭いがしました。蛸薬師さんには紙芝居やさんが来ていました。
きれいな模様の書ける定規がはやっていました。いい匂いの消しゴムを集めて自慢しあいました。
はやりのゲームはすぐには買ってもらえませんでした。
休耕田でしろつめ草をあんで、蛙を捕って、とんぼやイナゴを捕って、暗くなるまで遊んで、母が「ごはんだよ」と呼びに来てくれました。
家族一緒に夕飯を食べ、茶の間で宿題をし、今日の出来事を話してドリフをみて笑いあいました。

今日も明日も明後日もしあわせだった。。。。

塾にも習い事にも行かなかったけど、この思い出だけで、すばらしい教育を受けてきたのだと思える私です。

忙しい今の子供達が未来に持っていくのはどんな思い出なんでしょうか。
私は、娘にどんな思い出を持たせてやったのでしょう。。。

願わくば、思い出して暖かくなる思い出でありますように。。。。。


  


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2007年11月20日

さぶい~

今日は北風が吹きすさぶ寒い一日でした。

この夏は、関西はドロドロに溶けそうな猛暑日のつづく毎日で9月になっても真夏日があったりして、まったく秋が来るのかと思うほどの温暖化実感の年でした。

その割には、台風の直撃なかったかな。

急に寒くなった感じで、紅葉も鮮やかに変化してきました。

仙台は、もう雪ですか。

関西にきて、なにがうれしいって言うと、冬に朝起きてカーテンからこぼれる淡い光に「やばい!雪だ!タイヤ履き替えなくちゃ、雪かきしなくちゃ!!!!」と飛び起きることがないことです。

もっとも、神戸ではうっすら路面が雪で白くなることはありましたが、ここ和歌山(市内中心部限定ですが)では朝早く路面が白くても日が昇るとすっかり消えていってしまいます。

アイドリングをしなくても車はバシバシ動きますし、凍っている道路をこわごわ歩くこともありません。

もちろん、和歌山でも紀ノ川沿いや山間部や有名どころの高野山や熊野古道当たりは山の中なので雪も降りますし氷点下にもなります。
山間部と沿岸部ではビミョウに気候も違います。

有名なミカンの山は沿岸の丘陵地に多くみられますが、日当たりの良い南の斜面はミカンの木が植えられ、人家は山の谷間の一番早く日陰になるところに建てられています。

高齢者が多くなったのはどこの土地でも同じかもしれませんが、和歌山の高齢者率は20%に近づく勢いです。
若い人は大阪や神戸などの都市部に出ていく土地柄、急な坂の続くミカン畑を守っているのは70代以上の高齢者が多いと聞きます。

機械化が進んでも、果樹は人の手が必要です。

重たい消毒を背負い、山に登り一本一本消毒をし、家族総出でひとつひとつ取り入れをする。

お正月に向けて、和歌山のミカンも仙台に出回ると思いますが、ミカンを食べるときにちょっとだけ思い出して欲しいと思います。

このあたりのおばあちゃんやおじいちゃんが、暑さの中、寒さの中で腰を痛めながら育てたミカンであることを。

ミカン、おいしく食べてね。






  


Posted by リリィ at 00:38Comments(0)

2007年11月18日

木枯らし1号

関西地方に木枯らしが吹いたそうです。

夕方、ユニクロに出かけたら、冬物が急に売れていたような気がしました。
私もフリース買ってきたんですけどね。

和歌山は気温こそ氷点下にはなりませんが、海から山から風が吹くのでけっこう寒く感じます。
神戸にも6年住みましたが、六甲おろしより紀ノ川を渡ってくる寒風の方が体感温度を下げるような。。。

和歌山の人はけっこう寒がりで、お年寄りになると「いったい何枚着てるの?」っていうくらい着膨れていて、そのくせ寒さに身を固めて歩くのでよく転んで怪我をするようです。
なんでしょうね~、薄手のものを何枚も着込んだ方が暖かいと思うのか、防寒に対する認識が違うのか。。。
暖房器具も東北に引けをとらないくらい重装備です。

寒い期間が短いので、寒さになれる暇がないのでしょうか。

娘は自宅から片道13㌔の道のりを自転車で通学しています。
近くにもいくらでも学校があるというのに「この学校がいいの!」といって、田んぼの真ん中にある高校へ入学しました。
道中、3分の2は田んぼと畑の中の一本道。行きも帰りも向かい風(午前と午後で風向きが変わるので)の中、ママチャリを猛スピードでこいで通っています。
平坦とはいえ、13㌔を40分で到着するそうなので大した脚力でしょう?
寒いとき、暑いとき、かわいそうにも思いますが、皆勤賞を目指して毎日爆走していきます。

ちなみに、和歌山市の公立校(小・中・高とも)暖房器具はありません。
中学の時は制服の上に防寒着を着てもいけませんでした。
制服の中に「着膨ればいい」ンだそうです。
着膨れたセーラー服ってみっともなくてねぇ。。。。
家では汗かくくらい暖房するのに、学校は寒くてもいいんだ。。。
このあたりのこの辺が私にはよくわかりません。

明日は今日より寒いとか。。。
頑張って行くんだよ~。
  


Posted by リリィ at 23:42Comments(2)

2007年11月15日

う~~~ん

今日も、ぼ~としてしまった。

もちろん、仕事にも行ったし家事もちゃんとした。
。。。少々、部屋は散らかっているけど、やっと寒くなったから掛け布団も冬用にしてみた。
旦那がおとといから風邪ひいているし、喉痛いっていうから献立は鍋焼きうどんにしてみたし。

ただ。。。
しなくてはいけないことを今日も先送りしてしまったいる。

大学のレポート。。。
通信添削指導っていう名前のやつなんだけど、12月の初めの締め切りまで出さないと単位認定試験が受けられなくなる。
こうしていつも先に延ばして、締め切りギリギリにあわててばばばばばばば~~~っとしあげて提出するのが私の常。。。

そのたびにつぎは早めにやろうと思うんだけど、早めにやったり計画を立てて授業をこなした試しがない。
でも、こんなんでもなんとかやってこれてしまったことが、「まあ、明日でもいいか」という「先延ばし癖につながっているみたい。

追いつめられないとやらないクセは、追いつめられてもできてしまった「成功体験」が自分を甘くしてしまうらしい。
別に、実力があるわけではない。

これで高校も3校落ちたし、車の免許も3回も受けに行った。
みんなが気合いを入れてちゃんと一回で通っている試験をやっぱり3回受けたこともある。
試験料だけよけいに払うのは無駄だと思いつつ。。。
成功体験じゃないじゃん、と思うでしょ。
だけどね落ちても、「まあ、ちゃんと勉強してなかったもん」と逃げ道を作りつつ、何回もやってれば試験なんて受かるもので。
今まで一回で受かったのは専門学校と国家試験だけで。。。

よく落ちなかったな。。。

娘の学校の面談で先生から
「やればできる子だと思うんですが、どうもコツコツやるとか計画性を持つとか言うことが苦手なようですね~」

はい。
母譲りでございますの。。。
今日こそ、一科目はしあげます~。
お風呂入ってからね~。
  


Posted by リリィ at 22:29Comments(2)

2007年11月14日

学生時代

。。。って言っても、実を言うと今もまだ学生してるんですけどね。

通信制の大学の学生。
一応、この春卒業はしたんですが、どうしてもとりたい資格にちょこっと足りない単位があって今も学生継続中。
学生証があるので、映画は「学割」効くんです。すごいでしょ~。

でも、やっぱり学生時代って若いときのことよね。

私は、仙台北部の専門学校を出ています。
当時は全寮制で、女の子ばっかり90人弱が寮生活をしていました。
大学とは違って、科目はすべて「必修」。
次々からつぎへと与えられるカリキュラムを必死でこなす毎日。
試験の頼みの綱は先輩が残していってくれた答案。。。
出題がほとんど同じ講師だったりするので問題傾向も類似していたりして。。。

毎日、授業と実習、掃除と食事当番で明け暮れていました。

放課後はガラにもなく「ダンス部」に入っていたので、講堂で社交ダンスの練習をしていました。
高校も女子校、ここも女子ばっかり。しかも全寮制。

男の子と知り合えるチャンスは「ダンパ」(ダンスパーティー)!!!!

市内の大学のダンス部とサークルも組んでいて、先輩の中にはその中に彼がいる人もいました。

年に一度、各サークルでは国分町にあった「歯科医師会館」のホールをお借りしてダンパを主催。
私たちのサークルでも開催するためポスターをつくったり、チケットを「プリントゴッコ」で印刷したり、バンドを頼んだりと
とても楽しかったのを覚えています。

運動音痴の私はステップの覚えも悪く、あまり上手ではなかったと思いますがそこは二十そこそこの若さでカバー。
くるっと回ったときに「かわいいように」、ふわっとしたスカートを選び、ヒールを履いてみんなと出かけました。
フロアーが滑るので、ジルバではよく転びました。
上手なリードをしてくれる男の子に誘われると、もう、すっごくきもちよ~く踊れました。

その中に、医学部のNくんがいました。
ダンパの度によく誘ってくれて、よく踊りました。

医学部の大学祭にも誘ってくれたかな。映画「ヒポクラテス達」をみました。
2~3回、デート?したかな。
妹さんが私と同い年とかで、やたらと「うちの妹はかわいい」という話をする人でした。(笑)

ある日、卒業間近の彼に「何科の先生になるの?」と聞いたことがありました。

「眼科」

「何で?」

「だって、眼科なら最悪失明ってことはあっても、人は死なないだろう。。。」

大学祭でみた「ヒポクラテス達」は、医学生の実習グループが主人公の映画でした。
命を決定するその重圧に、ある学生は自殺してしまい、ある学生は精神病を発症し、ある学生は精神科の医師としてその同級生の主治医になっていきます。
そうか、医師って重い職業だなと。

卒業して、自然にあえなくなったNくんですが、きっといい先生になっていると思います。

Nくん、「誠心スイートポテト」覚えていますか?

  


Posted by リリィ at 23:35Comments(0)

2007年11月13日

漆器祭り

11月の第二土日は隣町の「漆器祭り」

隣町の「海南市」は藩政時代からの漆器の街。
かつて、漆器を運び出すために利用された運河のあとが埋め立てられて「堀端通り」となり、その通りが祭りの会場になる。
ふだんは静かな職人の街がこの日ばかりは活気であふれる。

通りの両脇に地元の漆器店や婦人会などの店が露天に並び、塗りのお椀や蒔絵の盆などが手頃な値段で販売される。

7年ほど前になるだろうか、今は亡き母が最後に我が家に来たときにこの祭りを訪れた。

「お仏壇にご飯とお水をあげるとき使う小さなお盆と、小ぶりのお椀が欲しいわ~」
そういって、露天のお店を冷やかしながら見て回り、値切り上手の母は、かなりまけてもらって20㎝ほどのお盆を500円で、お椀を一個100円で5個購入。。。
「いいおみやげができた。」と喜んでいた。

祭りの最後に「漆器会館」に立ち寄って、塗りの小さなジュエリーボックスを見つけた母は、

「なぁ、これ、仙台の孫娘達の成人式のお祝いにいいなぁ。赤いのと朱色のと。。。」
そして私に、
「あんた、これ、あの子達の成人式の時、祝いにかってやってくれない?私はそれまで生きてないだろうから。」

母はそのときすでにガンの末期で、数週間まえに同じ病気で父を送ったばかりだった。
同じ病気に倒れた父を支えながらガンの告知を自ら受け、病状をしっかり把握しながら死に支度をしていた母だった。

その母が、決してみることはできない孫達の成長した姿に思いをはせた言葉だった。

その思いを3年前に姪の長女に贈った。そして今年は次女に贈るため、「漆器祭り」に足を運んだのである。
11月でも暖かい日が続くこのあたりだが、なぜかこの祭りの日はいつも肌寒い。

近隣の「おばちゃん達」が買い物袋をさげて露天を見て回り値切ったりしていた。
久しぶりに来ても変わらない田舎町の風景の中、その雑踏に母がいるような気がしてふと立ち止まった。

母ちゃん、まぁちゃんにも「天国からの贈り物」買ってきたよ。
請求書は、いつか私が天国にいくときまで預かっておくわ。

  


Posted by リリィ at 23:15Comments(0)

2007年11月11日

思いで。。。

娘が修学旅行から昨日帰ってきました。

曇天の天気もなんのその、たくさんのみなさんの思いやりの中、いい思い出と共に帰ってきました。
沖縄のみなさん、引率の先生方、ありがとうございました。

水族館やスキューバ体験などリゾート旅行かと思いきや、かつての防空壕だった洞窟やひめゆりの塔にも参ったとか。

「懐中電灯を消したら、昼間なのに真っ暗な洞窟だった。体験者のおじいさんの話を聞いた。
敵に見つかるからと泣きやまない赤ん坊を絞め殺したりする事もあったそうだ。真っ暗だから、子供の死に顔さえわからない。お母さんは、真っ暗な中で子供の顔を何度もさわって覚えておこうとしたらしい。 そのお母さんはおばあちゃんになって今もお元気でいるらしいが、死んだ子の顔を今でも思い出せるといっているそうだ。 。。。あんなきれいな海があるところで、そんなことがあったんだね。」

今の高校では日本史は「選択科目」だ。
選択したとしても、近代史はほんのさわりだけでや、鎌倉時代だの江戸時代だのとこの国の「栄光」しかやらない気がする。
なぜ、近代史がおろそかにされるのか。。。そこに生きた人たちが健在だからなのか。
あの戦争にはたくさんの意見が交錯されるからなのか。
重要なのは負から学ぶことだと思うんだけど。

私の両親(故人)は昭和3年生まれ。
今17才娘は、私の両親が終戦を迎えた年令である。

娘よ、
あなたのおじいちゃん、おばあちゃんがどんな思いであなたの世代を過ごしていたのか、少しでいいから想像して欲しい。
そして、震える思いで過ごしている人々が、この空のずっとむこうだけど今もいることを考えて欲しい。

つい、この間なのだよ、この国に戦争があったのは。

美しい風景や優しい人たちに感謝して眠れる日がずっとずっと続きますように。
そんな日々が、空の向こうの国にも来ますように。






  


Posted by リリィ at 21:10Comments(0)

2007年11月08日

沖縄の天気は。。。

朝からうきうきで支度していた娘。「昼過ぎに沖縄到着、晴れてるよ~~~」とメールをくれました。
だれか、引率の先生の中に晴れパワーの方がいたかな?
ツアコンの人かしら。

でも、明日の天気予報はやっぱり雨なんだけど。。。

私が高校の時は女子校だったので、総勢250人くらいの女の子ばかり新幹線を乗り継いで京都まで行きました。
今思えば、先生方のご苦労は大変だったと。。。
昔はお嬢様学校だったらしいのですが当時はすっかり「やんちゃ」な学校になっていたので。。。
他校は自由時間が一日あったりしましたがうちは数時間でした。 信用されてなかったんですねきっと。

制服がちょっと変わった色でしたのでふだんはあまり好きではなかったのですが、京都でも奈良でもおみやげやさんの方に「かわいらしいな~、どこの学校?どこから来はったん?」とよくきかれました。 
今はすっかりデザインも変わってしまいましたが、去年久しぶりに学校を訪問したらエントランスに当時の制服が展示してあって、とても懐かしかったです。

旅行中は全行程制服着用、学校指定の手提げを持って移動し、宿では学校指定の体操着、外出は厳禁、食事はいつも団体で大広間でとっていたと記憶しています。
団体のバス旅行よろしく、移動に移動を繰り返して、とっても疲れた旅でした。
薬師寺のお坊さんのお話がおもしろかったので覚えていますが、神護寺は紅葉の天ぷらしか印象にありません。
曼陀羅を見せていただいたはずなのですが。。。ごめんなさい。
2時間だけの自由時間は清水寺の参道でおみやげを買いました。
今でもよく清水には行きますが、三年坂「角の七味屋さん」を見つけるとす~っとタイムスリップする思いです。

今の子なんて、私服でお化粧までして、宿泊はホテルでバイキングで、ダイビングして、自由時間もたっぷりです。
ぜいたくだな~。

思えば、これが人生最後の修学旅行。。。
いい思い出と一緒に帰ってこいよ~。

  


Posted by リリィ at 21:41Comments(0)

2007年11月07日

こんばんわ

ブログを初めたものの、体調不良でかけませんでした。
やっと復活です。

明日は、娘の修学旅行の出発です。
関西空港から「沖縄」に行くのだそうです。
今時の修学旅行は贅沢ですね。
私学では海外のところもあるとか。。。

私たちの世代、仙台からの修学旅行といえば、中学は東京、高校は北海道か京都・奈良方面が主流でしたが
今はどうなのでしょう。
高校の時、関西方面はとても遠いところのような気がしました。
それが、電車一本でいけるところに嫁ぐなんてね。

あのころは、寺社・仏閣の見学やお坊さんのお話などちっとも楽しくなかった。
楽しかったのは奈良公園の鹿とか、太秦の映画村とかおみやげ屋さんだったですね。

今は、わざわざ枯山水の庭園なんか見に行って、抹茶なんていただいてほっこりしてりするのに。
これも「とし」でしょうか?

娘は沖縄で初のスキューバーダイビングをするのだそうです。
しかし、天気予報は雨のち曇り。。。
あの子達の学年は小学校の入学式からイベントというイベントが「悪天候」に見舞われています。
中学の卒業式は桜の咲くなか、和歌山の春には珍しい雪(吹雪)でしたし、高校の入学式は大雨でした。
そういえば中学の修学旅行も大雨のディズニーランドだったなぁ。。。

気合い充分ですが、雨雲まで呼び込まないように、なにより無事で帰ってきて欲しいです。




  


Posted by リリィ at 21:14Comments(0)

2007年11月03日

始めました~。

仙台を離れてずいぶんたちました。

嫁いだときは、「関西だって同じ日本だし」とタカをくくっていた私ですが、
毎日がカルチャーショックでした。

だって、関西は子供も関西弁!(当たり前)なことも、みんな歩くのが速いことも、赤信号でもバンバンわたっていくことも、
電車に乗り込むのは早い者勝ちってことも、標準語を「関東弁」と嫌うことも、「出身は?」ときかれ「宮城県」と答えたら「それ、青森のどっち側?」なんて言われることも(仙台と答えれば、「あ~、仙台~」と言ってくれるのに)
見知らぬおばちゃんが親戚のように話しかけてきて飴をくれることも。。。
「違うんだ。。。。感覚が。。。」と戸惑う毎日を過ごしましたが、もう慣れました。

そして、12年前の阪神大震災にも被災しました。

最近、なんだか仙台が懐かしくて仕方ありません。
まだ振り返るほど年はとっていないつもりなんですが。。。

現在の日々のことと、懐かしい仙台の思い出を時々書いていこうと思います。
みなさん、よろしくお願いします。

  


Posted by リリィ at 23:40Comments(2)